人生100年時代の生き方

コラム@IFLATs LAB

世間では「人生100年時代」という言葉がいつの間にか浸透している。初めて聞いた時には、恥ずかしながら生命保険会社や投資会社のCM用に作られた言葉かと思っていたが、イギリスのビジネススクールの教授による提言と知り、色々と考えるようになった。今ではすっかり世間に定着し、企業がそれぞれのビジネスの必要性を説く材料にもなっている感があるが、個人的にこの言葉にはささやかに抵抗感を持っている。この言葉には医学的な進歩により、平均寿命が100歳を超える時代が来るという意味も含まれていると思うが、おそらく人間は体力的なものは今後も変わらないのではないか、つまり健康に動ける期間はこれまでと変わらないのではないかと考えるからである。だからこそ周囲の人の世話になりながら生きていくことになる状況を考えて備えるよりも、一人一人が少しでも長く、自身の存在感を示すことができるような力を付けることがこれからも重要だと思っているので、年齢を意識する必要は感じないのである。どうもそんな捻くれた考えを持つようになったのも、その教授の著書をまだ読んでいない状態で、TVCMなどで頻繁に耳に入るようになったことへの違和感からきているのかもしれない。

そんな偉そうなこと書きながら、自分も60歳という人生の節目を目前に控えて、初めて気づいたことがある。実はこの年まで、自身の未来、将来について考えたことがほとんどなかった。目先のことしか考えられなかった、いやもしかすると敢えて考えないようにしていたのかもしれない。幼い頃に何になりたいとか、学生時代に将来何をするのかとか聞かれていたはずであるが、その時何と答えていたかの記憶がほとんどないのである。それがこの節目の年になって初めて自身のやりたいこと、目標に気付いた。ただ本音を言うと、先々に目標を持って動いていないと衰えていく自分が怖いという気持ちが強いだけであるが、これからは自身のやりたい仕事にトライし、最終的に残ったお金を本当に必要としている人に寄付することが、今の私の最大の目標になっている。なんだ寄付であれば、すぐにでもできるじゃないかと思われるかもしれないが、金額の大小ではなく、自身が一生懸命にやってきた結果、最後にそこに残せたものを必要としている人に渡すことが大事であり、それを達成することが私の「人生100年時代」の目標になっている。

そこでふと思うのが、今の若い世代はこの「人生100年時代」という言葉に対して、どのような捉え方、印象を持っているのだろうかということである。大半の若い人はほとんど何も感じていないのだろうと想像しているが、意外に彼らは真面目に考えているかもしれないし、我々世代とは異なる考え方が出てきて欲しいと願っている。私がマーケティングリサーチという仕事柄、こうした分析を行う機会は少なくなく、「世代」を分析軸として世の中、市場の変化をみることが度々ある。特に市場を分析するケースにおいては、世代間の違いを見ることは必須でもある。ただあくまでも個人的な考えであるが、人そのものは本質的に変わらない、いつの時代も変わらないという考えを持っている。特にそれを強く感じるのが毎年お盆の時期である。この時期、戦争をテーマとしたドキュメントや特集がTVなどで多く放映される。そこで感じるのは、戦争への是非ではなく、原爆の被爆者に対する差別、戦後補償を求める人たちへの誹謗中傷など、人への差別である。こうした行動は現代のSNSなどによる誹謗中傷が問題となっていることと何ら変わりがない。また今もどこかで繰り返し戦争や争いが行われている事態がいつの時代も人間の変わらない姿を象徴している。このように全く変わらない人である一方、否応なく変化しているのがその環境である。中高年の人が若い人を見て、考え方、見方の違いを感じ、様々な表現を持って差別化しているが、実はそれは人そのものの違いではなく、生まれ育った環境の違い(変化)そのものであり、それが属に言われる世代間の違いではないかと思う。

その世代間の違いを何気に痛感する時がある。尊敬する人物は誰か、時にそうした話題になり、TVなどでよく行っているインタビューなどを見ていると、歴史上の人物では坂本龍馬や織田信長、現代では本田宗一郎やスティーブジョブス、有名スポーツ選手など、何かを成し遂げた人物が挙げられることが多い。一方で学生の回答においては自身の父、母といった答えが非常に多く聞かれ、その違いに驚くことがある。もちろん自身の父母を尊敬することは良いことであるし、尊敬できる父母を持っていることは羨ましい限りである。ただこうした回答で強く感じることは、彼らはどこを見て生きているのだろうと思うのである。もちろん歴史上の人物や偉人たちを尊敬する人物として挙げなきゃいけないということではないが、あまりに近すぎる、狭すぎるという印象である。悪い意味でそれほど学生の行動範囲や、知識・思想の範囲が狭いのではないか、いわゆる若い世代の環境がインターネットの普及以降、実は逆に狭くなっているのではとさえ感じている。

ちなみに、私はその問いかけにもあまり意識したこともなく、いつも答えに窮してしまうのだが、私が考えた末に尊敬できる人物として、一回りしてたどり着いたのが水泳の池江璃花子さんである。私自身の子供の世代にあたる彼女であるが、トップスイマーでありながら、突然襲われた病魔を克服しつつ、今は再び水泳の頂点を目指そうとしている。私の彼女に対する尊敬の念はこうしたストーリーにあるわけではなく、彼女の発言や姿勢にある。スポーツ界の人物がよく尊敬対象に挙がるのは、誰しもが到達できない実績と、目標に対するストイックな姿勢が容易に想像できるからであろうが、彼女の場合はそこだけではない。高校生の時からトップスイマーとなり、注目を集めていた彼女の発言はとても高校生のそれではなかった。正に日本の水泳界を背負っている、またその覚悟がある人の発言であった。高校生でありながらどうしたらこのような発言ができるのか、どうしたらこのような子供が育つのであろうかと感心していたものであるが、彼女の素晴らしいところはそうした気負いも感じさせず、自然体で、素直に、そのまま自身の環境や期待を受け止めている姿勢である。どう足掻いてもそのような姿勢にはなれそうもない自身の琴線に触れて、私の気持ちは感心から尊敬に変わっていったようである。また今はそのような彼女のメンタルスキルの根本を解明してみたい気持ちでいっぱいである。

こうした話題を社会人の息子に振ると、「考えたこともない」と一言。学生の息子は「尊敬できる奴なんていねえし」と身もふたもない返事。奴ってお前・・と情けなく思い、今後こうしたコラムにおいても表現を息子から愚息に変えようと思いつつ、どうやら我が家系では今後、おそらく代々、尊敬できる人物として少なくとも父母が挙がることはないだろうと、書きながらしみじみ自身を振り返っている。

池内 伸(IFLATs エグゼクティブフェロー)

 

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この記事を書いた人 池内伸
IFLATsエグゼクティブフェロー。
大学卒業後、商社勤務を経て1988年(株)矢野経済研究所入社。入社時より海外ブランドビジネス、ファッションビジネス等のマーケットリサーチに従事する。以降、消費財を対象にブランドビジネスの調査、コンサルティングを手掛け、コンシューマー・マーケティングユニットのユニット長を経て、現在はフェローとして勤務。2000年以降はファッション、消費財のみならず、ブランディングを切り口に活動を拡げ、大学ブランディングや地域ブランディング等にも携わる。その他、立教大学大学院ビジネスデザイン研究科客員講師、10数校の大学における就活生への業界研究、社会研究の講師等を歴任。

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