「チェンジマネジメントという使命」ミツフジ 三寺歩社長 ー前編
リーダーはいかにしてリーダーになったのか。リーダー自身の言葉からその理由を紐解くインタビューシリーズの第4回では、ミツフジ株式会社代表取締役、三寺歩氏にお話を伺った。三寺氏は、倒産寸前だった実家の老舗繊維メーカーを引き継ぎ、わずか数年で最先端IoT企業へと急成長させた。西陣織に始まった家業は二代目で銀メッキ繊維に注力する。その技術資産を生かして、高精度の生体情報を取得できるウェアラブルビジネスへ舵を切ることで、業態転換を果たしている。三寺氏の様々な経験や学びを踏まえた事業展開と次世代リーダー像について2回にわたり、お届けする。
人が可能性を信じるプロセスを実感した高校時代
IFLATs(以下I):今のビジネスに対する感覚、基礎となった出来事についてお伺いしたいのですが、過去において自分の中で大きかった経験をお聞かせください。
三寺(以下M):いろいろありますが、一番大きかったのは高校生時代です。私が進学した高校は大学に行く人が少ない学校でしたが、学園祭の盛り上がりに特徴がありました。演劇活動が非常に活発な学校で、夏を全て使って準備をして出し物をします。3カ月も演劇の練習をすると、すごいクオリティーのものができあがります。
私もせっかくだから3カ月一生懸命やってみようと、高校二年生、高校三年生の時に取り組みました。私は裏方が好きなので演出や脚本を勉強し、かなり時間を使って準備して作りました。卒業後、周りの人たちは私がこれだけやっていたのだから、テレビとか映画関係に行くのかな、と思っていたようです。たかだかひとつの出し物なのですが、人が自信を取り戻してやりぬく、人が可能性を信じるプロセスを目の当たりにしました。
チェンジマネジメントの環境があったパナソニックで学び、そして家業へ
M:私は大学を出て、パナソニック(当時は松下電器産業)に就職しました。パナソニックの面接で言われたのが、「チェンジマネジメントの時代が来ている。ドットコムのバブルがあり、全てがITによって変わっていくタイミングである」と。その時、私は非常に共鳴したのですが、後から振り返ると、自分はチェンジマネジメントに興味があったのだと気づきました。
高校のときに(演劇を通じて)チェンジマネジメントを体感し、パナソニックがチェンジマネジメントを求めているところへ、私は採用されました。そこでの経験が、一番自分の人生の中で大きかったと思います。
祖父が2008年に亡くなるのですが、その前に私が呼ばれて、「新しい時代がくるから新しい時代に備えることを考えてほしい」と言われました。会社を経営しているということだけではなく、人生において様々な歴史を経験した世代の人たちには何かが見えていて、感じたものを教えてくれたのだろうなと思いました。ミツフジの経営が危機に陥り、私が戻ることになりました。2014年の10月に社長に就任しました。
この会社を立て直すためには、二つの使命がありました。一つ目は繊維業が新しいビジネスに突入するという、チェンジマネジメントをやるということ。二つ目は京都の南部というエリアの中で何かをあきらめた人がもう一度希望を取り戻すという、高校時代に経験したチェンジマネジメントを社会全体に向けて取り組みを示すということです。二つの使命がこの会社にはあり、そのために自分は仕事をするのだ、ということでした。私の中には、変化と激動の時代を生き抜くんだというマインドセットが、高校のときからずっとあるのだろうな、と思っています。
I:社会に出る以前にそういった感覚はある程度備わっていたのですね。さらにプラスになったことや、人や書籍との出会いはありましたか?
M:一つ目は、大学の先生に言われたことで、「大学生はリスクがない時代である」と。社会人としてのリスクはないですから、「大学で勉強しています。アポをください」と言っても余程のことがない限り「帰れ」とは言われない。丁寧に扱われると思います。その時期にその看板を使ってやれることをやれと言われました。
二つ目はパナソニックで叩き込まれたことです。松下幸之助さんが作ったベンチャー企業が一代でなぜここまで大きくなったのかというフレームを徹底的に教えられます。大企業たる所以も学びました。非常にロジカルな企業で働く経験をさせてもらいました。
その後、力を試してみたいと入った外資系企業での経験も大きく、シリコンバレーの会社や文化から日本の企業が学ぶべきことは多いと思い知りました。社会人大学院でMBAの勉強をしていた時も、いろいろな出会いがあり、様々な先生の指導もあり、リーダーシップとは何か、マネジメントとは何かというのを教科書上でたくさん教えていただきました。
I:パナソニックは昔からご自身の中で意識していた会社だったのですか?
M:学生時代、私は信用金庫で働こうと思っていました。自分の手でできる仕事をしたいので、一対一で対面し、自分を好きになってもらい「あなたから買いましょうと」と言われる人になりたかったですし、地元密着の仕事がしたいと思っていました。
しかし就職活動の時に、パナソニックの方から「あなたはサイズ感として大きな仕事をやっていく器に見えるので、それは社会の要請、世の中の要請として、自分で受け止めなければいけない。だからパナソニックみたいな規模の大きなところで勉強してみたらどうですか。良い悪いとかではなく、それぞれに合う、合わないがあり、あなたはそっちではないですか。」と言っていただきました。
I:面接の際、ご実家の家業の話とかもされたのですか?
M:いや、全く。当時は家業には興味がありませんでした。
I:社長をやる気になったきっかけは何でしたか?
M:家業が資金ショートしかかり、存続が危ないとわかった時には、自分が手を差し伸べなかったら潰れるという状況でした。祖父からの遺言も思いだし、これはやりなさい、ということだろうなと。当時は外資系に勤務していて十分な給与をもらっていたのですが、お金って要は頂いたものですよね。
私は自ら勝手に育ったわけではなく、誰かがお金を出して育ててくれた。祖父のお金でもあるし、社会のお金でもありますよね。これは、きっと社会から返せと言われているのだなと。全部いったん返して責任を果たし、地域社会や地元企業に貢献する人生を送ったら、また大好きなサラリーマンに戻ろうと思いました。
I:今でもそう思われるのですか?
M:はい、サラリーマンが向いていると思います。
強烈な制約条件を背負ったミツフジでイノベーションを起こす
I:本当に革新的なビジネスを展開されていますが、どういった流れ、発想で今の事業に至ったのですか?
M:会社を成長させるドライバーは数々ありますが、社会ニーズがあるかどうかが一番重要だと思っています。自分たちが持っている技術が社会ニーズとマッチするところがあるのか、という調査をしながら進めています。
高収益、ナレッジをベースとした身軽な会社でありたいと思います。私は1万人の社員を束ねられるとは思えないので、自分が経営できるサイズで、ビジネスが成り立ち、かつ高い価値を持てるようにしたいと思います。社会ニーズと高い技術の兼ね合いを見て、ウェアラブルビジネス、IoTのビジネスにいこうと考えました。
I:そういう発想があってもなかなか実行に移すのは大変かと思うのですが、自分自身を後押しするものはあったのでしょうか?
M:会社が死にそうなので生き抜くしかないという、追い込まれた状況はあると思いますね。やはりイノベーションは追い込まれたり、強烈な制約条件があったりしないと、なかなか成立しないのではないでしょうか。ミツフジには全てが揃っていたということですね。
I:もう少し現実路線に近いところでやっていく、という発想にはならなかったのですね。
M:グーグルやアップルがウェアラブル市場に入ってくるというニュースを見て、これはものすごい投資が起きると思いました。私はIT業界にいましたので、IT業界が現状ではテクロノジーとして限界にきているというのを感じていました。オンプレミスがクラウドになった。それで売上は上がるでしょう。でも、会社の数以上に売上は上がりません。ブロードバンドにしてデータ量を増やしても、もう飽和状態です。そうすると残されたピースは、アナログデータしかない。その一つがバイタルです。バイタルデータを取り扱うクラウドサービス、ヘルスケアサービスをやることが業界の次の道であり、ここに莫大な投資が下りてくると考えました。先行してその中で技術開発をするのが生き残りの道であると思いました。
2020年12月期の着地が11億円でした。私が会社を継いだ時、売上2,000万円で、ここまでは来ましたが、これからどうなるかですね。
I:特にITビジネスはタイムラグがあって、一時期話題になり、また何年後かに波が訪れる。そういう現象が多々ありますが如何でしょうか。
M:ウェアラブルは2025年までは一つの流れがあり生き残れるでしょう。そこまで会社を継続し、この業界全体の成長と共に会社を成長させられるかが、私の今のミッションと考えています。